ICTで実現する患者に寄り添う医療・介護 

自分がどんな病気でどんな病院でどんな治療をしたかといった情報って、自分のことなのに自分の手元にはありません。医者に教えてくれと言わなければ教えてもらえない。そもそも教えてもらおうともしない。それに教えてもらわないといけない時も、なんか変に遠慮がちだったりして。

でも医療の個人情報もほかの情報と同様に患者本人が管理すべきではないでしょうか?

また、医者の中には、患者への説明の必要を感じていないだけでなく、患者の話を聞く必要も感じていない人もいます!!

そうした状況をおかしいと思い、個人の医療情報を一か所に集めて、その人に関わる医者や看護婦、介護関係者、薬剤師と家族、そしてもちろん本人が情報を共有しあうことを目指すソフトウエアを開発した人がいます。

岡崎光洋さん。クロスケアフィールドという会社の社長で、東京大学大学院薬学研究科の医薬政策学の特任研究員でもあります。たまたまこういう会社を経営しているのではなく、このソフトウエアが広く世の中で使われるようになることを目指して岡崎さんが選びとったキャリアです。

もともと東京薬科大学と日本薬科大学で遺伝子研究をしていましたが、熱い思いをソフトウエアにしたいと、北海道薬科大学、北海道大学保健科学研究院などで研究のかたわら、エンジニアと組んで「バイタルレポーター」というアプリを開発しました。そのアプリに富山県砺波市のものがたり診療所という面白い名前のクリニックの佐藤伸彦先生が興味を持ち、さらに秋田県医師会の副会長も務める由利本荘市の伊藤伸一先生が興味を持ち、先生たちの意見を反映してバイタルレポーターに改良を重ね、「ナラティブブック」というソフトウエアが出来上がりました。

ナラティブ・ブックのHP

聞きなれない英語ですが、ナレーションという言葉はご存知ですよね?ナラティブはナレーションと同じ語源を持つ「物語」という意味の名詞です。患者さんの人生の物語という意味が込められています。

由利本荘市の伊藤先生は、このナラティブブックが医療や介護にたずさわる人材が不足している地域医療への一助になると考えました。そして秋田県に掛け合い、県も巻き込んで県内各地にこのシステムの導入を進めようとしています。能代山本郡横手医師会でも試験的に採用が始まっています。岡崎さんは今、忙しく県内の各市町村を回ってナラティブブックの活用がいかに医療・福祉・介護関係者の情報交換に役立つかを説いて回っています。

秋田県の医療関係者の不足は深刻です!地域の基幹病院でも次々と診療科が閉鎖されています。鹿角市には産婦人科がなくなり30kmも離れた大館市に行かなければ赤ちゃんを産めない危機に直面しています。

医者を増やす努力が必要なのはもちろんですが、医療を効率化していくことも求められています。そこにナラティブブックがピタっとはまったのです。

また伊藤先生は医療の必要のない高齢者をできるだけ自宅で過ごさせてあげたいと願い、訪問診療に力を入れています。でも、訪問するのは平均して2週間に1回程度。その合間は看護婦さんやヘルパーさん、家族たちが埋めていくことになるのですが、それぞれが情報を持ち寄って共有できる仕組みがあれば、効率的ですし安心です。

ナラティブブックは医療や介護情報を中心にしたフェイスブック「のようなもの」と考えてください。岡崎さんにフェイスブックに似ていないかと聞いたら、情報を公開することが基本のフェイスブックとは違うと言われましたが、ある個人とその人を見守る人たちとの関係に特化した閉じられたSNS(ソーシャルネットワークサービス)とでも言えばいいのでしょうか。

伊藤先生がナラティブブックをどう使っているかを取り上げたNHKの番組のビデオを見せていただきました。

番組では、ある高齢者の家を訪ねた伊藤先生が、脳梗塞で言葉のコミュニケーションが難しい90歳代のおばあちゃんと家族に話しかけながら診察をし、そのあとタブレット端末を取り出して何やら書き込み、タブレットのカメラのレンズを高齢者に向けて、「笑ってちょうだ~い」と言って写真を撮りました。これらの情報が、ナラティブブックで看護婦や薬剤師さんや介護関係者にもシェアされるのです。フェイスブックでもグループ内だけでの情報共有ができますが、フェイスブックの情報は新しいものが投稿されるとどんどん流れて行ってしまいます。重要な情報だから皆が見られるところに長く表示するといったことができません。ナラティブブックは、掲示板のような機能を持っているのが特徴です。

重要な情報とは、患者さんの医学的なことや容態のことだけではありません。死生観を含む終末期の過ごし方についての患者さんの希望も含みます。

岡崎さんは、患者や高齢者の気持ちをとても大切にします。特にある患者が人生の終末に近づきつつあるときに、できるだけ本人の希望に沿って最後の時間を過ごしてもらいたいと思い、それを実現するツールとしてもナラティブブックが役に立つと考えています。

多くの人はお医者さんの前では萎縮して無口になりがちです。お医者さんが優しくいろいろ聞きだそうとしても、必要最小限のことしかいいません。お医者さんが「これからどう過ごしたい?」といっても、モゴモゴと「そうですねえ・・・」とか言って終わってしまいます。でも、誰かと雑談している時や、お風呂に入ってほっとした時には、「孫の卒業式に出たい」などとポロっというわけです。高齢者に限ったことではないでしょう。大事なことであればあるほど、なかなかはっきりとは言えないものです。

あるアイドルのコンサートに行きたいと思っていた患者さんがいたそうです。そのアイドルの大ファンでコンサートに行くのが夢だけれど、自分でも無理と思ってずっと黙っていたその患者さんは、ある日、ふっと周辺にいる人にその望みを漏らしました。以前であれば、それを聞いた人も「何とかできないかな」と思いながらも誰にもそれを話すこともなく終わってしまっていたでしょう。でも、それをナラティブブックにアップしたことによって、患者さんの周辺の人にシェアされ、みんなが何とか実現させようと、芸能事務所に掛け合って特別な席を用意してもらったり、緊急時に対応できるような準備を整えたりと力を合わせて準備を進めました。その患者さんの場合、コンサートの日を待たずに命が燃え尽きてしまったのですが、ナラティブブックを使えば、こんな夢を実現しやすくなりそうです。

また、お医者さんが患者さんの考えだとして周囲に話したことは、これまではなかなか反論しにくいものでした。ですが、ナラティブブックにはさまざまな人が患者さんから聞いたことが書き込まれますから、お医者さんの話が違うと思ったときに「そうじゃないようだ」と言いやすくなるでしょう。またチームのメンバーが変わったときにも、手間ひまかけずに、すぐに情報を承継することができるというメリットもあります。

日本の医療制度は、医師不足とともに今、医療保険制度の存続可能性の問題も抱えています。高齢化と医学の進歩によって、国の医療費は恐ろしい勢いで増えているからです。

この医療費増加の背景には、医療費が何か医療行為をしたことにしか支払われないということもありました。「そりゃそうだろう。やらなかったことにお金を出すなんておかしいでしょう」って思うでしょう。しかし、そのことが無駄な医療行為の温床になる一方、不要と思っても、診療を続けるためには保険の点数に換算できることをする必要があり、良心的なお医者さんを悩ませていたのです。

ようやく国も最近、この問題に対処し、医療行為ではなく患者本人の希望や意見を聞くことについてもお金が出るようになったそうです。そうした行為を称して「人生会議」と呼ばれることになりました。定着するかな。

厚労省のHPから

このように、ナラティブブックというソフトは、見る角度によっていろんな色に輝いて見える玉虫のようなところがあります。岡崎さんの思いがこもった「医療情報を本人の管理下に」という視点からみると、これは、人が生まれたときからの医療情報を蓄積し、最終的には、ある人の自叙伝のようなものができるのです。これが、まさにその人のナラティブ(物語)です。

一方、医療従事者の不足に悩む自治体からすると、ナラティブブックは、医療行為を提供する中で非常に重要ではあるものの充実させることが難しい情報の共有という部分に大きな力を発揮します。秋田のように医療従事者が足りず、それぞれの人がますます忙しくなる中で、情報共有のため何人もの人に同じ内容の電話を掛けたりしなくても、ひとりの人がナラティブブックに情報を載せるだけで、何を見たり聞いたりしたか、どんな医療行為をしたのか、あるいはしなかったのか、といったことが分かるからです。各人が2週間に1度訪問するだけでも、看護師さん、介護従事者、薬剤師、家族それぞれが知り得た情報を共有すれば毎日のように新しい情報を得ることができます。

今、患者本人でナラティブブックに投稿している人は少ないと思いますが、これからは、インターネットやSNS(ソーシャル・ネットワーク)を使い慣れた人たちによる利用も広がると思われます。そうすれば、田舎で一人暮らしをする親と子供たちの交流や、病院に連れて行ってあげたり、買い物を手伝って上げたり、ご飯を作ったりしてくれる人たちとの交流にも使えます。自身でいろんな情報を書き込む人も増えるかもしれません。一人暮らしが増える中で寂しさを紛らわせる役割も担えるでしょう。ナラティブブックの情報をまとめて本にしたご家族もいたそうです。

ナラティブブックは、2018年の「グッドデザイン・ベスト100」に選ばれました。岡崎さんは、この賞に応募した理由について、『ナラティブブック秋田版』によって、秋田の医療関係者たちが自分たちはどういう社会を求めるべきか、自分たちが働くっていうのはどういうことか、自分たちが看取る人たちの幸せとは何かということをはっきりと認識することができたと指摘、そのことを広く認めてほしかったと語りました。ナラティブブックは、さらに「グッドフォーカス賞」の地域社会デザイン賞も受賞しました。

患者情報に関わるソフトウエアは、ナラティブブックに限らずいくつもあります。SNSに賛否両論があるように、このソフトフエアを評価する人もそうでない人もいると思いますが、ただ、こうしたソフトウエアによって医療や福祉、介護の現場が変わって行く、あるいは変えることができる時代になったことだけは確かだと思いました。

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